第四章 告白する
だが、これならばどうだろう、とオーフェンは思う──人には誰にでも、忘れ去られた部分がある。もちろん、忘れ去られていたい部分もある。
しんとした、暗いホールを見回しながら、オーフェンは
「《現在の女神》……」
誰にともなしに、オーフェンはつぶやいた。腕組みしていた手を解いて、舞い上がったほこりを正面からかぶったズボンを、ぱっとはたく。
ん? と、彼のつぶやきに驚いたのか、かたわらにいたヒリエッタが聞き返してきた。
「なに?」
「いや……この屋敷の主人の人柄に感服したんだよ」
オーフェンは、にやりとして言った。女神の彫像には、顔の真ん中に、ノミで一撃したような
ホールには、ほかに目立ったものもない。ヒリエッタが背後で、入口の扉を閉めると、屋敷の中はほとんど真っ暗といってもいいほど
ぼんやりとした明かりが、再び彫像を浮かび上がらせた。
誰にでも過去はあるものだ、とオーフェンは胸中でくりかえした──そして、それは神神も同様なのだろう。長女たる過去の女神──次女たる現在の女神──そして、末妹たる未来の女神。
運命の三女神、運命の三姉妹には、どうやら未来もあるものらしい。人間にとっては、それはどうだか分からない。ひょっとしたら今日明日、いきなり死ぬことだってあり得るのだから。
オーフェンは、感傷的になっていた自分を
「ったく……結局、
「あら、でも、一番肝心なところは話したじゃない? この件は、当事者のわたしのスポンサーに直接会わないかぎり、理解してもらえないだろうって。それで、今から彼のところに案内してあげるってんだから」
「俺がもっと聞きたかったのは──」
と、オーフェンはガス灯の光のとどかない
「俺が聞きたかったのは、なんで俺なのかってことさ。単に腕の立つ魔術士ってことなら、俺でなくともいくらでも強力な奴がいただろう」
「例えば……《
「オストワルドなんかと同じに考えないでね、わたしのことを──わたしが接触したかったのは、キリランシェロという男なのよ。大陸最強の黒魔術士チャイルドマンから、すべての暗殺技術を伝授された黒魔術士。チャイルドマンの
「やめろ」
オーフェンはこわばった声で制止しようとした。が、ヒリエッタは構わずに続ける。
「でも、今から五年前に彼は《塔》から
と、彼女はウインクした。
「大陸西部では、あなたより強力な魔術士はいないわ。これまた失踪して
「やめろと言っているんだ!」
オーフェンは気短に
「俺はキリランシェロじゃない。五年前からオーフェンと名乗っている。《塔》を出たのも、俺なりの理由があってのことだ。それに、名前は──」
彼はせいいっぱい
「名前には、意味があると思ってる。俺がオーフェンと名乗ってるかぎり、キリランシェロだった俺は死んだままだ。誰もそれを……無理に呼び起こすことはできない」
「人を殺せない
「そんなことはどうでもいいんだ」
いらだたしく、オーフェンはうめいた。
「だいたい、人のことを言うんなら、君はどうだってんだ?
「……ええ」
ヒリエッタは同意してみせた。重ねられていた手が、力が抜けたようにすっと落ちる。
「そのことは、歩きながら説明するわ。この屋敷の……地下へ行きながら、ね」
「落ちこぼれ……外れ者」
「…………?」
「わたしのことよ。ようするにわたしは、それだったの」
館は、話によれば十年前に放棄されたのだそうだ。当時は使用人の手によって
が、なんにしろ──今となっては当時の
ヒリエッタが、軽い調子で続ける。
「ここからちょっと西に進んだところにね──地図に名前も載ってない、小さな村があるの。地元の人間は、レインダストって呼んでいたわ。わたしたちは
それを聞いて、オーフェンはぽつりとつぶやいた。
「……俺の生家があるのも、確かそのあたりだな」
「家があるの?
ヒリエッタは、少し意外そうに聞き返してきた。オーフェンは息をつくと、
「今は君の身の上話をしてるんだろ? 続けろよ」
「ま、いいけど……いるわよね。
彼女は肩をすくめると、また話を再開した。
「わたしが村を出たのは、十五のときだったわ。村の中のことが、なにからなにまでなんとなく
「十五ねえ……」
オーフェンはかたわらのヒリエッタを、頭から腰下あたりまでざっと
「つうと、それがだいたい十年前ってトコか?」
「残念。九年前」
「どっちでもいいさ」
オーフェンが言うと、ヒリエッタは、くすと笑い──
「それが、よくないのよ」
答えて、表情に暗い色を落とした。わずかに視線を下げた彼女を見返しながら、オーフェンは自分の頭をかいた。天井から虫が落ちてきたのだ。
「もし、わたしが村を出るのが一年遅かったら……わたしは彼に出会わずにすんだわ」
「彼?」
オーフェンは髪の間でじたばたしているクモをつまみ上げ、聞き返した。
ヒリエッタの声は、虫歯の痛みを
「ええ。この村で行き倒れになったわたしを
彼よ。
それだけで、その男のすべてを語り
同時に、つまんでいたクモを後ろに放り投げた。放り投げたあたりでばたばたと、
そのまましばらく屋敷の中を進み──ホールの奥の通路を抜け、台所らしき部屋をくぐり抜け、地下の酒蔵へと続く階段を前にしたとき、オーフェンはなにげなく聞いてみた。
「なんで、この村に着くのが一年後だったら、そのサミイとやらには出会わずにすんだんだ?」
ヒリエッタの返答はごく短かった。
「死んだからよ。出会って一年後に」
(……いるよな。触れたくない話題になると、いきなり口数が少なくなる奴ってのも)
オーフェンは仕返しのつもりで胸中でつぶやくと、なんの
雨季が過ぎたばかりのせいか、階段は妙に湿っぽかった──湿っぽいだけでなく、
と、オーフェンはふと自分の忍耐が切れかけているのを悟った。
「で、そのサミイってのがどうしたってんだ」
ヒリエッタはふりかえりもせずに答える──だから、どんな表情をしているのかはこちらから見えない。
「彼は助手だったのよ。この屋敷の主──《牙の塔》から追放され、この村に流れ着いた黒魔術士フォノゴロスのね」
階段は、彼女の返答とともに、いきなり終わった。
階段の下はちょっとした踊りの場のようになっていて、真正面に一枚、鉄製の
あたりが真っ暗になる。
「……どういうつもりだ?」
オーフェンは気にもせず、聞いた。ヒリエッタが肩をすくめるのが、
彼女はそのまま手探りで扉を
流れ出てきた空気は、水の
開いた扉から流れ出てきたのは、空気だけではなかった。部屋の中から、淡い光も
部屋の右手には、大きな木箱が三段重ねくらいになって整然と積み上げられている──高さ一メートルほどの、
「製造年月日? 赤光帝三十八年……今から十年前……?」
オーフェンは
彼女の表情にはひっかかるものがあったが、オーフェンはあえて無視して入口から部屋の中を見回した。木箱が並べられているせいで、もとは広かったらしい地下室もかなり狭苦しくなっている。そして、部屋の奥のほうに、ひときわ大きい木箱が置いてあり──
いや、違った──と、オーフェンはきょとんとした。奥にあるのは、木箱ではなく、巨大なガラスの
壁にぴったりと押し付けられるようにして、高さにして二メートルほどはありそうな、巨大な水槽がしつらえてある。ガラス面は
「ここが──」
ヒリエッタは
「ここがフォノゴロスの……安置所よ」
「安置所?」
聞き返す。と──
「その通り」
返事は、水槽の中から響いてくるようだった。
「よく来たな。待っていたよ……わたしがラモン・フォノゴロス──《牙の塔》を追放されたキエフ・フォノゴロスの研究を……
◆◇◆◇◆
『ボルカン商会の記念すべき第一回大会──落ちている金物を集めてお金持ちになろう!』
シーツとおぼしき白い布に、でかでかと青いペンキで書かれたその
さんさんと日が照る昼下がり、宿屋の客の残り物をひとりであらかた片付けたボルカンが思いついた新商売が、これだった──説明するのも馬鹿馬鹿しい、とドーチンが思うくらいで、ようするに道端に落っこちている
(ま、『
と、前方の行列を見やる。兄はなにやら商会員──つまり子供たち──を
そんなわけで、特になにもしないのだが、とりあえずお義理でつきあってやっている、というわけだ。見つかったらげしげしに
と──彼は、道の向こうから見知った顔がふたつ、並んで歩いてくるのに気づいた。Tシャツの上に、男物の色があせたブルーのシャツをひっかけた、いつものジーンズ姿のクリーオウと、何度か顔だけ見たことがある、黒ずくめの格好をした少年。ドーチンは、なんとか記憶の底からかすれた名前を思い起こした。マジク。そう──あの金貸し魔術士の
ふたりもこちらに気が付くと、道を横切ってこちらに駆け寄ってきた。なにやら
「ハアイ」
「……こんにちは」
ドーチンは立ち止まって、あいさつを返した。ボルカンたち『商会』は、彼を置いてのろのろと進んでいく。
それを横目で見送りながら、ドーチンは
「お散歩ですか?」
「ううん……オーフェンを探してるの。彼、いきなりいなくなっちゃって」
言いながら、クリーオウはため息をついた。その後ろでマジクが
「ぼくは、今日は見かけてませんけど。今朝は
「昼前に帰ってきたわ。で、また出てっちゃったみたい。殺し屋といっしょに」
最後の一言には、妙な迫力がこもっていた。これ以上その話につきあうのはどう考えても得策とは思えなかったが、とりあえずドーチンは聞き返した。
「殺し屋?」
答えたのは、マジクのほうだった。
「あ──ええと──そうじゃなくて、背の高い女の人。髪の長い、ほら、昨夜は同じ宿に泊まってたはずですけど」
「それなら、覚えてますけど……」
というか、あれだけ目立つ人間をそうそう忘れられるものでもない。
じろりと後ろ目でマジクをにらみつけ、クリーオウがうなるようにつぶやく。
「早く見つけださないと、オーフェンが危険なのよ──あの女、彼を殺しにきた殺し屋なんだから。ナイフを持ってたの、見たでしょ?」
(どう考えても、殺し屋なんかより魔術士のほうが怖いと思うけど……)
ドーチンは胸中でぼやいたが、口には出さなかった。なんにしろ、目の前のこの人間の女に逆らうとロクなことがない。
「じゃあ、ぼくも気を配っておきますから──」
ドーチンは言いかけた。そのとき──
「うわああああああっ!」
悲鳴があがる。
見ると、ボルカンが旗を抱えたままひっくりかえったところだった──
「どけえっ!」
男は、こちらに向かってそう叫んだ。ドーチンは、さっと道のわきにどき、改めて落ち着いてその男を見やった。
(靴?)
ドーチンが
そのとなりで、あ~あ、とばかりマジクが頭を抱えている。
「うおおっ? 真っ赤な血ィが!」
男は、鼻血の
「なにをする!」
「うるさいわね!」
クリーオウは、まだ地面に倒れて上体を起こしたままの男に、ずいと詰め寄るようにして指を立てた。
「そっちこそ、なにをするってのよ! いきなり現れて、子供まで突き飛ばして!」
「どー考えても、いらだってるところにたまたま現れた通行人に八つ当たりをしたとしか思えないけど……」
後ろでぼやくマジクも、クリーオウがじろりとにらみやるとすぐにそっぽを向いて口をつぐんだ。
ドーチンはあえて黙って見ていたが、どちらかといえば、マジクに賛成だった。
「こ、小娘──言っておくが、今はそれどころではないんだぞ!」
男は立ち上がると、ぱっと腕を水平に振った。どうやら、走ってきたほうを指し示しているつもりらしいが。
つられて見ると、ひっくりかえった箱からこぼれた鉄屑を、
なんにしろ、ケガだけはなかったらしい。と──クリーオウが叫ぶのが耳に入った。
「それどころじゃないのはこっちもご同様よ! あの
「淫乱……?」
師とそっくりの疑わしげな半眼で、マジクがぼやく。
だが誰も聞いていなかった。男は、いきなりぐいとクリーオウの手首をつかみ上げると、警戒顔のクリーオウに顔を近づけ、
「なにが暗殺者だ! 子供のお遊びにつきあってる
と、そこで口ごもる。はっと気づいたように、
「オーフェン、だと?」
その
「さわんないでよ、鼻血男!」
ごし! とクリーオウの
「うおおおお?」
再び倒れる、ミスター
「あー。やだ、髪に血がついちゃったんじゃない?」
見るとクリーオウはそんなことを言いながら、マジクに頭を見せている。
「だ、
ドーチンはとりあえず、男のほうに駆け寄った。なんとなく、彼のほうが被害者のように思えたのだ。
男は、また鼻を押さえつつ、うめいている。
「く、くそ──小娘が、この
どうやら、この男はコーゼンというのが名前らしい。ドーチンは男に近づいて、くりかえした。
「大丈夫ですか?」
「う、うむ──できればちり紙なんか、ないか?」
「すいません。ないです」
「むむむ」
コーゼンとやらはうめくと、立ち上がって
「ち、ちょっと──なんのつもりよ。そんなモン抜いちゃって」
「女子供を手に掛けるのは本意ではないが、聞き捨てならないことを聞いたのでな」
と、ついでにもと来た道を見やり、続ける。
「どうやら、追っ手も
「き、聞き捨てならないことって、鼻血男のこと? や、やーね。冗談じゃない」
「ンなことでいちいち剣を抜く奴がいるかっ!」
コーゼンは、片刃の軍刀をぶんっと振ると、
「貴様が言っただろう──オーフェン、とな! お前らがあの黒魔術士の仲間だというなら、ちょうどいい。人質にしてくれる!」
「って──」
ドーチンは、コーゼンを見上げるようにしてつぶやいた。
「白昼堂々そんなことを叫んじゃっていいの?」
「ゔ……」
痛いところを突かれたらしく、コーゼンは、ひくりとほおを引きつらせたが、それだけだった。どうやら、その辺のことはもう
見回すとあたりでは、ざわざわとやじ馬が集まりはじめていた。中には、ボルカンが引き連れている子供の親の姿もあるようで、ひときわ悲痛な叫び声をあげている。いつの間にか安全なところ──つまりそのやじ馬たちの中に
(ぼくのことかよ、おい……)
まあ、どのみち見るかぎり、子供たちは木箱を
マジクの後ろに隠れるようにして、クリーオウが叫ぶのが聞える。
「あ、あなたなのね──オーフェンが言ってた、その他大勢、
「お師様は『複数の殺し屋に
背後に回ったクリーオウに、困ったような視線を投げて、マジク。
いいかげん怒ったようで、コーゼンが叫んだ。
「人を勝手に
「ちょっとしか知られてないのね」
「やかましいっ! 俺は
「あのう……」
ドーチンは、コーゼンの戦闘服のすそをひっぱりながら、言った。
「これから人を
「うるさいっ! 顔を見られれば同じことだ!」
「ええと……」
疲れたようにマジクが、つぶやいた。
「もういいや。死なない程度に──十、九、八、七、六……」
「…………?」
きょとんとして、殺し屋がマジクのほうを見やる。そのうちにもマジクは、目を閉じてややゆっくりめのカウントダウンを続ける。
「五、四、三、二、一──」
カウントが三を過ぎたあたりから、ふわっ──と少年の金髪が風に吹き上げられたようになびく。その瞬間、コーゼンが悲鳴じみた声をあげた。
「魔術だとぉ! 資料にはなかった──」
「我は放つ光の
かっ──!
突き出された少年の手の先から、純白の輝きがほとばしった。光の帯は大気を駆け抜けると、そのままコーゼンの真正面に突き刺さり──そして、通り抜けた。
風ひとつ起こらない。
「……へ?」
顔の前で両腕をクロスさせて、とっさにガードの姿勢をとっていたコーゼンが、間の抜けた声をあげる。なんともない。まぶしいだけだった。
「あれぇ?」
マジクは、不良品をつかまされたような
「うまくいかないなあ。時間をかけて集中すればなんとか、って思ったのに」
「この役立たず!」
少年の肩につかまっている格好で、クリーオウが言うのが聞こえる。口をとがらせて、マジクが反論した。
「役立たずはないだろ。少なくとも光が出たんだから、今日は
「おちょくっとんのか、貴様らあああっ!」
(やばいっ!)
怒鳴り声をあげたコーゼンの横で、ドーチンは身をすくませた。殺し屋が、とうとう切れたらしい。剣を片手に構えて、正面のマジクとクリーオウ目がけて
その後ろ姿を見送りながらドーチンは、自分になにができるかと自問していた──時間はあまりない。数秒のうちに殺し屋はふたりのところにたどりつき、ばさり──どっちかを斬り倒すだろう。殺し屋は自制を失っているようだから、一撃で
以前、クリーオウが剣を使うのを見たことがある──それなりの技量だった。だが今は彼女は丸腰だし、どちらにしても、マトモな殺し屋と正面からやり合うほどの腕前があるわけでもなかったはずだ。となると、彼女がこの場で自分の身を守れる可能性はほとんどない。ましてやあのマジクとかいう少年は、自分に向かってくる刃物をかわすことができるようにはとても見えなかった。一言で言えば、絶望的というやつだ。
でもだからって、ぼくになにができるってんだ。殺し屋はものすごい勢いで突進していくし、後ろから追いかけて、それに追いつけるとはとても思えない──石でも投げようか? 当たるわけないけど、まあ小石を拾うだけは拾ってみて、とりあえず努力はしたのだと言えば周りも
(あれ?)
とドーチンは、道にかがみこんで石を拾い上げながら、殺し屋のほうを見やった。もうとっくに数秒は過ぎた。いいかげん、斬り殺されたマジクかクリーオウかの悲鳴が聞こえてもいいころだろう。
見上げてみると、殺し屋の後ろ姿は消えていた。いや正確には──彼が見上げた瞬間、殺し屋のいたあたりの空間をなにか黒い影が通り過ぎて、殺し屋が横に
「くそ──やはり、追ってきやがったか!」
「え……?」
ドーチンは、殺し屋がにらみやるほう──彼がもと逃げてきたほうへと、視線を投げた。もとより子供たちはとっくに逃げ出していたようだったが、例の木箱がころんと横倒しになって転がっている。そして、そのすぐわきに──
「な、なにあれ」
クリーオウがうめくのが聞こえる。誰も答えなかった。答えようがない。
がちゃん……と、甲冑は右腕をあげた。同時に、その
殺し屋が倒れている地面をえぐった。ただの
「食らえ!」
これは、コーゼンの叫び声。殺し屋の右手から、稲妻が走る。電光は真っすぐに甲冑を撃ち抜いた。ショックを受けたように振動し、大きな音を立てて、甲冑が倒れる。が──すぐに甲冑は、何事もなかったようにむっくりと起き上がった。
そして、今度は腕をあげずに、少しだけ身体を震わせる。
ぴうっ──鋭い音が響き、今度はなにも見えないというのに、いきなりコーゼンの肩口に傷口が開いた。深手ではないようだったが、殺し屋が身をよじったので、その勢いであたりに血が飛び散る。
やじ馬たちの中から、悲鳴の声があがった。
と……
ぶわっ──と、空気が揺らめくように、音を立てる。
ただぼうぜんとする観衆の視線の中、マジクとクリーオウの真正面に、それは出現した──昨日見た、例の亡霊だ。黒い霧がゆっくりと形をとり……人の姿へと
やじ馬たちの誰かが、叫ぶのが聞こえた。
「出た──また出たぞ! フォノゴロスの
それを合図に、クモの子を散らすようにやじ馬たちが逃げ出していく。わーきゃー言う騒ぎの中で、ドーチンは、はっきりとその亡霊のつぶやきを聞いた。
「キサマ──キノウ・ハ──キヅカナカッタ──キサマモ──マジュツシ・カ!」
神経質そうな若者の姿で、マジクに向かって亡霊は続ける。
「イツニナッタラ──ミツカルノダ! フォノゴロス──!」
「ぼ、ぼくはフォノゴロスなんかじゃ──」
マジクが反論する。が、亡霊は聞いていないらしい。なおもぶつぶつと何事かをつぶやくと、両腕を広げて絶叫した。
「キサマノシタコトヲ──オモイシルガイイ!」
ごうんっ!
風が、吹き荒れる──
風が収まったとき、その場に残っていたのはドーチンひとりだけだった。
ぽかん……と、やじ馬たちの逃げ去ったその場で、彼はあたりを見回した。逃げ遅れた村人や、逃げる群衆にさんざ踏み付けられたらしいボルカンが、地面に倒れているが、あの殺し屋もクリーオウも、マジクの姿もない。そして、黒い
「ど……どうしよう」
ドーチンはぺたんと地面に座り込んで、うめくように言った。ずり落ちかけた眼鏡の位置を直しつつ、
「昼日中に暗殺者が現れたり幽霊が出てきたり、なにかが間違ってるぞお」
そういう問題ではないような気はしたが、とりあえずドーチンが思いついたのは、その程度だった。
よたよたと、ボルカンのほうに近寄っていく。兄は、足跡を全身にくっきりつけながら、うつ伏せのままなにやら毒づいているようだった。
「くそ……いきなり踏切板扱いしやがって……こうなりゃ赤ん坊で夜泣き殺して──」
「に、兄さん兄さん」
ドーチンはボルカンを揺り起こすと、
「ど、どーすんのさ。クリーオウも、あのマジクってのも、いなくなっちゃったけど」
むくり、と起き上がりつつこめかみのあたりを手のひらでさすり、ボルカンもうめく。
「むむ……どうやらあの幽霊にさらわれたらしいな」
「うん……」
とドーチンは、あたりを見回した。そして、適当に見当をつけた位置で視線を止め、
「……なんにしろ、あの借金取りに言うしかないけど──でも──」
口ごもる。ボルカンにも分かったらしく、いやそうな顔を見せた。
「あの金貸し魔術士、絶対に今回のことが俺たちのせいだと決めつけるに違いないぞ。今までみたいに」
「いや、今までのは実際兄さんが
だがボルカンは無視して、ずんぐりした指を立てて提案してきた。
「頭丸めてそこに
「
「俺のせいじゃないのに」
「ぼくのせいでもないのに」
「不条理だな」
「ねえ?」
と最後の一言はお互いに同時につぶやきあって、地人の兄弟は天を見上げた。
◆◇◆◇◆
「ラモン……フォノゴロス?」
オーフェンはあごに手を当て、聞き返した。
「わたしの父──キエフ・フォノゴロスのことは知っているのだろう?」
声は、水槽の中から聞こえてくるのではなかった──よく見ると水槽の上に、伝声管らしき細い筒が突き出している。オーフェンは据わった
ふりかえって、ヒリエッタに言った。
「悪いが、席を外してもらえないか」
「どうして?」
と聞きながらも、彼女は、彼がそう言いだすのを予期していたふうだった──片目をすぼめて笑みを浮かべるようにして、いたずらっぽくこちらを見ている。
オーフェンは、ゆっくりと
「ここから先は《牙の塔》の魔術士同士の話になる」
「オーケイ」
彼女はあっさり同意すると、部屋から出ていった。重い扉が、ぎいい、と閉まる。
オーフェンは水槽のほうに向き直った。
「フォノゴロスのことは、聞いたことがある程度だ。《塔》の長老たちは、その男のことを特級の
胸元のペンダント──《塔》の魔術士の
「俺の先生は、フォノゴロスの研究について、ほんの一時期興味を持っていたようだった。俺も資料を見たことがある」
「ほんの一時期?」
ラモン・フォノゴロスの声は、驚いたように響いた。
「ああ。すぐに興味を失った。残った資料は不完全だったし……そもそも彼には必要ないことだった」
「ほう……必要ないとは、どういうことだ?」
オーフェンはいらだたしげに頭をかきながら、
「フォノゴロスの研究は、人間を人間以上の存在にすることを命題としていたらしい。チャイルドマン教師は──」
一度言葉を切り、適当な表現を探す。
「彼は、生まれたときから
「なるほどな……」
ラモン──いや、その声は
「それならば、父の研究は必要のないものだったかもしれん。だが君は
「なんだと?」
「そしてそれこそが、キエフ・フォノゴロスの研究結果を《塔》が認めなかった理由だ──父は毎晩のように、わたしに
声は、
「彼は、ドラゴン種族に
「ドラゴンに勝る生物、だと……?」
オーフェンは聞き返した。
「ドラゴン──」
ラモンは詩歌でも
「かつて伝説の時代──
「俺や……父のような?」
彼の不自然な物言いを、オーフェンは問いただした。
ラモンは笑みを
「そうだよ。わたしは魔術士ではない……父の子なのだから、魔術の素養はあったのだろうがね。父はわたしに訓練を
そしてその声は、
「だからわたしには……あのクリーチャーを処理することができなかった、というわけさ」
(クリーチャー……)
オーフェンの脳裏に、あの神経質そうな若者の『亡霊』であるとか、奇怪な蛇人間のシルエット、そして──暗殺者の頭を握り
だが──あれがそのクリーチャーとやらであるとしたら──
「ハッ!」
オーフェンは、鼻で笑った。
「馬鹿げてる──確かにあれは、いちいち意表をついた格好はしてるようだがな、あんなもん、ドラゴン種族の魔術には通用しねえぜ。奴らの戦闘能力は、人間には
「そうして、生き延びてきたのだろう?」
冷静なラモンの声に、オーフェンはぴたりと言葉を止めた。一瞬静まり返った部屋の中に、明かりだけが揺れている。ラモンは、ゆっくりと続けた。
「あのクリーチャーたちは、試作品なのだ……父は段階的に、より強いクリーチャーを造っていくつもりだったらしい。
「だが
「
ラモンの口調はどうも、静かな研究室で議論でもしているように落ち着き払っていた。オーフェンはいらだちを覚えながら、伝声管をにらみつけた──と、ふと気づいたのだが、伝声管の上、水槽の上の天井に穴が空いている。ダストシュートのような四角い穴が、水槽の上にぽっかりと口を開けていた。
だがそれを
「人間の進歩の仕方というのは、過去を保存しようとはしない……むしろ、現在においてより効率のいいなにかを得た瞬間、過去のなにかが
「そいつは、あんたの父親の見解でもあるのかい?」
腕組みしてオーフェンが聞くと、ラモンの声は、同意の気配を見せた。
「ああ、そうだ。父は、あえてその悲劇に
「……とりあえず言っておくが、俺にはあまり興味深いとは思えんね。もしその
「……あれには、また別の意味がある」
「なんだと?」
特に意味もなく言った皮肉に、トーンを落とした答が返ってきたので、オーフェンは面食らった。だがラモンは今のところ、その説明をするつもりはないらしい。断りもなく少し前の話題にもどっていった。
「結局のところ父は、失敗したのだよ。まあもともと、人間の手で人間以上の存在を造ろうなどと、しようもないナンセンスだ。できたのはせいぜい、こちらの制御すら受け付けない化け物どもだけ。父はクリーチャーと呼んでいたがね。わたしは
「……悪く言えば、どうなる?」
「
ラモンの声にはよどみがない。
「もしくは、犯罪だ。何人かの犠牲者を出して、自らも命を絶った」
オーフェンは、宿屋の屋敷を建てた名士──村外れで変死したとかいう名士のことを思い出した。どうでもいいと思うようなことを、あえて聞く。
「犠牲者……ってのは、どのくらいいたんだ?」
「そこの木箱の数を数えてみるんだな」
オーフェンはふりかえって、部屋に積んである木箱を見上げた。ざっと見て──十数個といったところか。二十はない。
「ひとつの箱に、一匹の動物──蛇とか、ウサギとかが入っていてな。その身体に最高みっつの《要素》が
「ち、ちょっと待て──」
オーフェンは少々思い当たり、あわてて手をあげた。
「まさかと思うが──肥大とか言ったか? その蛇だかなんだかも巨大化しやしねえか?」
「……するが、それがどうかしたか?」
「あああああっ!」
オーフェンはわめいて、昨日、ドーチンがこの部屋にあるのと同じ木箱と、
そのことを言うと、ラモンは、事もなげに応じた。
「なるほど……ヒリエッタから聞いてはいたが、村に出没するクリーチャーが増えているとか……」
「つ、つまり──」
「木箱──クリーチャーズ・パンドラと父は呼んでいたが、それは、ここにあるものがすべてではない。父の死の騒ぎで行方が知れなくなったものや、あるいは
「ああああああ」
オーフェンは両手で頭を抱え、その場にうずくまった。半泣きになってうめく。
「くそ……話は聞くだけ聞いて、協力は断るつもりだったんだけどな……これで、無関係じゃなくなっちまった」
もちろん、貸金を取り立ててからだけど。
「……俺が見たクリーチャーとやらは、全部で三匹だ。幽霊みたいなのと、蛇人間と、あと、手」
「最初の一匹は、サミイだ」
「……なに──?」
「そして蛇人間というのは、キキュイームのことだろう。手は……ケンクリム。とすると同じ
「そんな……名前なんてどうでも──」
言いかけて、オーフェンはこめかみのあたりがうずくのを感じた。ぐるぐると単語が駆け
彼はフォノゴロスの助手──
父は──人間以上の存在を造ろうとしていた──失敗だったがね。その見当外れで──多くの人が犠牲になった。犠牲。人知れず。人体実験。犠牲!
思い出す──神経質そうな、白衣姿の若者。フォノゴロス! キサマノシタコトヲ! オモイシレ!
「フォノゴロスは、自分の助手までクリーチャーに改造したのか!」
我知らず、オーフェンは絶叫に近い声を張り上げていた。
ラモンは答えない──苔だらけの水槽に取り付いて、オーフェンはそのガラスをどんと
「答えろよ! 人間を、戦闘のための生物に改造したのか!」
「父は──」
「
オーフェンは、本当にたたき割りかねない勢いで水槽を殴りつけた。拳の
「なにがラモン・フォノゴロスだ! 貴様はフォノゴロス当人だろうが!」
なんの根拠もないあてずっぽうだったが、水槽の中のフォノゴロスは反論してこなかった。オーフェンは、さらに続けた。
「フォノゴロスに家族なんかいるか! お前は人間が
「……それならば、君は純粋に戦闘のための訓練を受けた魔術士なのだろう、キリランシェロ?」
ひどく冷静なままの水槽の声に、ぎくりとしたようにオーフェンは手を止めた。ぞっとして、一歩後退りする。声は、挑発するように続ける。
「ヒリエッタに、君の資料を読み上げてもらったのだ……君が本当に、わたしの用意した役目──クリーチャー処理に適任のの人材かどうかを確認するためにね。君は《牙の塔》で徹底的に戦闘と暗殺のスタッフとして育て上げられた。いかなる武器をも用い……あるいは素手ででも、人を殺せるようにだ。当人は忘れたつもりでも、
「先生は……」
オーフェンは、胸元のペンダントをぐっとにぎり、うろたえながらもはっきりした声を出した。
「俺の教師は、天才だった。化け物じみた天才だった。俺たちチャイルドマン教室の生徒全員が
ごくり──と
「だから彼は、生徒ひとりひとりに違うことを教えた。俺は、たまたま彼の戦闘技術を学ぶことになった。だが、それでも、彼は俺を育て上げたんだ。造り出したわけじゃない。それに──」
オーフェンは、最後の一言を、かみしめるようにつぶやいた。
「俺は、もうキリランシェロじゃない。オーフェンだ」
そう言った、その瞬間──
天井から、なにかが聞こえてきた。
…………ぁぁぁぁぁぁぁあああああああああ…………
(悲鳴?)
そう思った次の瞬間には──
どぼおおおおおおおおんっ!
ダストシュートかと思った天上の穴からなにかが
「我は放つ光の白刃!」
放たれた光熱波は、水槽の正面に命中して爆裂した。四散するガラスを呑み込むようにして、汚れた水があふれ出す。部屋中に流れ出した水の中には、見知った姿がひとつと、流線形の奇妙な物体がひとつ──
だがまずは、見知ったほうだ。オーフェンはそちらに駆け寄り、
「マジク!」
金髪を苔だらけに汚した弟子の腕を取って、オーフェンは少年を水の中から引き上げた。マジクはひとしきり
「お
そう叫んだ。わけが分からなかったが、とにかく謝ったほうがいいらしい。ほとんど
「あ、ああ。悪りィ」
「悪りィ、じゃないですよっ! クリーオウが死んじゃいましたよ!」
「……あん?」
あまりにも
マジクもまた、その視線につられるようにして、それを見たらしい──はっと息を呑む音が聞こえた。